カイロプラクターへの道 19

  • 2012.07.11 Wednesday
  • 21:24
 

サウスカロライナにはシャーマン大学の他にもう一つ光を放つ存在がいた。

それは、故Dr.Michael U. Kale。



Dr.KaleはDr.Lyle Shermanの直弟子でニーチェスト式上部頚椎スペシフィックの継承者だった。

生前にDr.Kaleのオフィスに見学した事があったが、とにかく自己顕示が強く、「自分こそがナンバー1!!」と言わんばかりのオーラがご老功から漂っていた。

アジャストメントテーブルは勿論、オリジナルのBJスペシャル。

ただ、なぜかニーパッドが無かった。

クライアントさんも膝が悪かろうが構わず床に跪けさせていた様子だったが、学生の自分にとって上部頚椎ニーチェストだけで結果を残していたDr.Kaleの存在はただ一点を除いては誇りに思えた。

実はDr.Kale、えらい商売人だったのだ。

帰りがけにKaleセミナーの勧誘やニーチェストテーブルやニューロカロメーターなどの売り込みが凄かった(汗)

結局、ニーチェストテーブルとニューロカロメーターを後日買うはめになった(笑)

ただ、自分には必要だったので、それはそれで良かったけど、、

そんなDr.Kaleが確立したKaleテクニックはその派生を含め、今や最もメジャーな上部頚椎スペシフィックのアプローチとしてカイロプラクティック界に君臨している。

その効果は十二分に認めるけど、何度もスラストは受けたくないと思わせるなんとも摩訶不思議なArtだった。

まさに、エクスプロージョン!!


20に続く〜





カイロプラクターへの道 18

  • 2012.06.14 Thursday
  • 11:57
 
サウスカロライナでは、生まれて初めてアパート暮らしを経験した。

キャンパスから車で10分位にあるアパートだったが、とにかく家賃が安かった。

僕が借りていた部屋は2LDKで、家賃は月400ドル程度。

当時のレートで換算しても月5万ちょっと。

あの広さと同じ部屋を仮に東京で借りるとなると、軽く15万は超えるだろう。


当然ながら、男の一人暮らし。

掃除と洗濯はボストンでの寮生活で慣れていたので問題はなかった。

ただ、さすがに食事だけは苦労した。

自分なりに頑張って自炊したが、毎日殆ど同じメニュー。


朝食 :ご飯 煮物 目玉焼き フルーツ入りヨーグルト

昼食 :乾麺

夕食 :パスタ 豆腐サラダ 


そして、週末は外食。

平日の食事はただ食うだけの為だったが、週末の食事はとても充実していた。

住んでいたスパタンバーグにはタイ、中華、アメリカンピザ屋などおいしいレストランが多かった。

その上、隣町のグリーンビルには日本人が経営する日本料理店が幾つかあり、普通に食材も買うことが出来たし、大好きな寿司もリーズナブルな値段だった。

度々、シャーマンに訪れたパーマーの学生達が羨ましがっていたのをよく覚えている。


19に続く〜



カイロプラクターへの道 17

  • 2012.06.04 Monday
  • 12:47
 

シャーマン在学中、いろんな著名なDC(Doctor of Chiropractic)に接する機会に恵まれた。

その中でのベストは故・Reginald R. Gold D.C.





彼はDDパーマーが創始し、BJパーマーが立証したカイロプラクティックを更に飛翔させた偉大なるオブジェクティブ・ストレートカイロプラクター。

とにかく、レジーのスピーチは常に単純かつ明快だった。

とりわけ、カイロプラクティックの目的は神経を介して全身を流れる生命力(イネイト・フォース)を干渉している脊椎サブラクセーションを見つけ、それを手によってForceを与え、相手のイネイトによってアジャストメントさせること。

断じて、病気や症状を診断する為、治療する為、緩和する為、もしくは病人を良くする為ではない。

それらの行為はメディカルドクター(医者)の仕事である。

もし、カイロプラクターが上記の目的の為にカイロプラクティックを行ったら、彼もしくは彼女はカイロプラクターではない。

カイロプラクティックは医療ではないのだ。



学生時代、このフレーズを耳にたこが出来る位聞かされていた。


それでも、彼のスピーチが大好きだった。(若干、英国訛りで聞き取り難かったが)


特に印象的だったスピーチがひとつある。

プラクティスマネージメントの話だったが、レジーは新規のクライアントに対して初回は兎に角相手の主訴を聞くことに徹した。

そして、相手の訴える全ての症状や病気などを紙に書き取った後、


「もう、訴えることはないですか?」 


と、クライアントに確認し、


「はい。全て貴方にお伝えしました。」


と、クライアントが答えるや否や目の前でその紙をビリビリに破り捨て、


「今日、この瞬間から私の前では一切、症状や病気の事を口にしないで下さい。」


と、答えた。


当然、クライアントは驚くが、そこで初めてレジーはカイロプラクティックの目的を説明し、その上でカイロプラクティックを受けるか否かを相手に選択させた。

ちょっと乱暴なやり取りに見えるが、レジーはこれ位しないと、医学思考で意識付けされてしまっている多くのクライアントに、カイロプラクティックの真の目的とその恩恵は理解してもらえない。

そのように、僕らに熱く訴えていた。

レジーはBJパーマー、CCE、シャーマン大学を含めた全てのカイロプラクティック大学を頻繁に非難していたが、それはレジーのカイロプラクティックに対する底知れぬ愛情の裏返しだった。

結局、レジーはカイロプラクティックという名称と決別し、Spinology(スパイノロジー)を創始した。


このSpinology、呼び名は違うがこれぞ真のカイロプラクティック。


医療として定着し、独自性を失ったアメリカのカイロプラクティックを名称を変えてまで残したレジー。


あなたは、永遠のヒーローだ。


18に続く〜







カイロプラクターへの道 16

  • 2012.05.24 Thursday
  • 13:52
 

人種差別を意識し始めたのも、実はシャーマンの学生時代。


語学留学、そしてプレ・カイロプラクティック(カイロ大に入るために必要な単位)を専攻していたボストン時代は自分が差別を受けているという実感は皆無に等しかった。

ただ、当時は単に語学が拙かった上にアメリカに対する憧れの意識が、そう思わせなかっただけかもしれない。


シャーマンがあるサウスカロライナ州・スパタンバーグは南部訛りが強く、黒人が多かった。

それゆえに、一部の白人が黒人やアジア人を軽蔑している空気は強かった。

自分も銀行で門前払いを食らったり、レストランで入店拒否をされたが、極めつけが2つあった。



1つは、とあるショッピングモールでの出来事。


モール内のベンチで一人腰を掛けていたとき、5歳くらいの女の子(白人)がジロジロと僕を見ていた。

そして、よっぽど物珍しかったのか近くに寄って来ては

「なんで、髪と目が黒いの?」

「どこからきたの?」

と、質問してきた。

そうこうしているうちに、女の子の父親が物凄い形相で迫って来ては、僕に吐き捨てる様に怒鳴った。

「この猿野郎!汚い手で娘に触るな!!」


?????


それから、10日ぐらいへこんだ、、、



そして、2つ目はシャーマンでの出来事。

あれは、ナショナルボード(国家試験みたいな試験)を受ける時期だった。

入学した頃から約3年間、プライベートでも仲良くしていたはず?のクラスメート・Jに言われた言葉は今でも鮮明に覚えている。

J   : K、お前はナショナルボード受けないんだよな?

僕  : いや、受けるよ。何でそんな事聞くんだ?

J     : だってお前はジャパニーズだろ! お前が受けると俺たちの仲間が困るんだよ。

僕  : 、、、、、、、、 


あの時、正直言葉が出てこなかった。


仲間が困る??


いやいや、俺もお前の仲間だろ?


そうJに問いただしたかったが、出来なかった、、



心底、悔しかった。


こいつらやっぱり上辺だけかよ。


とても惨めに自分が思えた。




でも、数日経ったら力が沸々と沸いてきた。



絶対に、ナショナルボード受かってやる。


そう強く決意させる出来事だった。


17に続く〜









カイロプラクターへの道 15

  • 2012.05.15 Tuesday
  • 21:22
 
在学中、度々日本からカイロプラクターの集団が研修にいらしていた。

そして何回か通訳を務める機会があり、バイト代がちょっと嬉しかった(笑

当然、シャーマンでの研修は上部頚椎スペシフィックを学ぶことであり、その中でもニーチェストは注目されていた。

これは今だから話せる事だが、当時とある団体の通訳を務めさせて頂いた際に、自分が学生だったが故にとても驚かされた事があった。

あれは確か、ニーチェスト・ターグルのセットアップ(実技指導)で、その講義を担当していたDr.Garrenの目が点になっていた瞬間があった。

Dr.Garrenはその団体のメンバーにペアを組まさせ、リスティングに沿ったセットアップを指導されたが、事もあろうに殆どの受講者が実際に相手の首を何度も力いっぱい打ちまくっていたのだ!

しかも、「痛いです! 痛いです!」と苦痛の声を挙げるほど、、、

この時、Dr.Garrenはセットアップまでの指示で、スラストを行えとは一切指示していなかった、、、


その光景に、Dr.Garrenは釘付け(笑)

いつもダンディでエレガントにキメテいたDr.Garrenのハトが豆鉄砲を食らった様な顔が今でも思いだしたら笑いが止まらない(爆)

その後、Dr.Garrenは僕に一言、こう言われた。


日本人はタフだな(苦笑)



この日のDr.Garrenは曲がったサングラスを気にしていた時以上に面白かった(爆)


16に続く〜



カイロプラクターへの道 14

  • 2011.07.04 Monday
  • 21:44
 谷村DCとの出会いは残念ながらドラマチックなものではなく、極平凡なものだった。当時、シャーマンから訪問した僕は、谷村DCを含めた数人の学生達の前でターグルの素振りやタイヤ打ちをお披露目した。その時にニコニコと笑顔で僕を眺めていたのが谷村DCだった。この時は申し訳ないが、谷村DCも自分が違和感を覚えていたパーマーの学生の1人として自分は認識していた。ただ、1つだけ覚えているのは谷村DCが上部頚椎に興味がある事だけだった。

同じターグルでもシャーマン式とパーマー式では随分と違いがあるんだと知ったのもこの時だった。シャーマン式は膝や背中を曲げないのに対し、パーマー式は膝を折り、背中も丸めていた。そして、シャーマンではニーチェストとサイドポスチャーの両方を教えていたが、パーマーではサイドポスチャーのみを教えていた事も知った。ただ、パーマーにはHIOの派生であるNUCCAなどシャーマンでは教えていないテクニックも多く存在しており、選択肢という点においてはパーマーは優れていた。

この教育における選択肢の幅をどう捉えるかはホントに人それぞれだと思うが、不器用な自分にとっては当時のシャーマンの選択肢の少なさは間違いなくプラスだった。

「ケイ、お前はターグルだけやってればいい。」

この一言をホントに多くの先生方や学生達に言われた。

15に続く〜

カイロプラクターへの道 13

  • 2011.06.30 Thursday
  • 12:05
 日本人の留学生もパーマー大学には10人ほど居た事も自分にとって驚きだった。そして、組織もしっかり?つくられており、皆和気藹々とした感じが正直、自分には馴染めなかった。ただ、キャンパスの大きさや学生数を見ればカイロプラクティックの源泉の名に相応しい威風がそこにあった。そして、多くの学生からもパーマー・プライドみたいなものを感じる事が出来た。それでも、自分には「ここは自分の居るべき場所ではない」という直感があった。

それは一言でいえば、カイロプラクティックに対するこだわりの違いからくるものだった。当時、自分よりも年配の留学生の方とお話をした時、「嶋田さん、パーマーの印象はいかがですか?」と訪ねられたので僕は「はっきり言って中途半端ですね」と答えたことを鮮明に覚えている。このとき、パーマーはカイロプラクティックではシャーマンには及ばず、ヘルスサイエンスではナショナルには及ばないと感じ、パーマーの方向性が自分には見えなかった。

これは最近理解したことだが、シャーマン大学はパーマー大学2代目校長であるDr.BJ Palmerが確立したカイロプラクティックを継承した教育を行っており、本家であるパーマー大学はBJ Palmerとは決別し、三代目校長のDr. David D Palmerによって現代に適応した教育を行っている。それゆえ、シャーマンで教育を受けていた自分からすれば、パーマーで教育を受けていた学生に対して何とも言えない違和感を抱いたのは無理もない。卒業し、9年経った今でもその違和感が拭えないことを考えると、何も知らなかった当時は若さも手伝ってか猛烈なコンサバ野郎だったに違いない(笑)

そんな中、生涯の盟友となった谷村聡士DCと出会いがあった。

14に続く〜





カイロプラクターへの道 12

  • 2010.08.26 Thursday
  • 13:30
シャーマンカレッジでは毎年5月にLyceum(ライシアム)が行われていた。このLyceumは云わばお祭りみたいなもので、この期間中は休校になるので学生にとっては数少ない連休だった。しかし、フィールドドクターであるDC達にとっては年に一回の同窓会及び卒後教育の機会の場でもあった。当然!?学生だった自分はLyceumに参加せず、家でのんびりしたり、旅行にも出かけた。特に有意義だったのはDavenportに行った事だった。Davenportは云わずと知れたカイロプラクティックの発祥地であり、源泉であるパーマーカレッジがあった。シャーマンに入学して以来、パーマーの存在は常に頭の片隅にあり、何故パーマー卒であったDr.Labarreが僕にパーマーではなくシャーマンを強く勧めたのかを知りたかった。だから、このパーマーカレッジ訪問はその理由を自分で確かめるまたと無い機会だった。

Davenportの町の印象はシャーマンのあるSpartanburgと比べて、どこか古めかしく暗かった。そしてパーマーはシャーマンがあまりにもこじんまりしていた(丘の上にある小学校を買い取ったキャンパス)為に、とても大きく感じた。当然、ヘルスセンターも見学させて頂いたが閉鎖感が何処となくあり、インターンも白衣を着ていたので一般的な病院を感じさせるものだった。正直、この白衣姿には何とも言えない違和感というか、嫌悪感があった。シャーマンではインターン及び指導教官であるDC達は白衣を着ない事になっていて、インターンは水色のジャケットを着ていた。

一般的に日本では白衣=医者のイメージがあるが、それはアメリカでも同じだった。だから敢えてシャーマンではインターンは白衣ではなく、水色のジャケットを着ていた。これには我々カイロプラクターは医者とは違うんだという強いメッセージが込められていた。この時僕はパーマーのインターンを見て、改めてシャーマンのカイロプラクティックに対する拘りを垣間見る事が出来てとても嬉しかった。

13に続く〜


カイロプラクターへの道 11

  • 2010.08.18 Wednesday
  • 18:37
シャーマン独自のフルスパイン・テクニックの後に待ちに待った上部頸椎コンタクトを学んだ。この授業ではニーチェスト式とサイドポスチャ―式を順に学んだ。確かこの時は5学期目だったと思うが、この授業を迎えるまでの一年間は素振りと打ちこみだけの日々だったので、本当にこの授業が待ち遠しかった。特に後弓接触でのニーチェスト式はシャーマンでしか学べない秘伝とも言える技法だったので、毎日が本当に楽しかった。

一般的にターグル・リコイルではネイルハンド(椎骨に直接コンタクトする側の手)をハイアーチにしてハンマーハンド(もう一方の手)を重ねて、両手でスラストを行う。そしてそのネイルハンドの豆状骨を可能な限り突き出して椎骨にコンタクトをする必要があった(ハイアーチはその為に行う)。よって物理的に手が小さいほど有利になりクラスメートのアメリカ人(特に男性)に授業とはいえ、直接上部頸椎に野球のグローブみたいな手をコンタクトされた時は痛みと圧迫感でかなり苦痛だった。今でもはっきりと覚えているがスペシフィックどころか、3〜4つの頸椎を同時に抑えつけられている感覚だった。

特に女性は僕以上に男性からのコンタクトを苦痛に感じていたようで、ニーチェストでのアジャストメントはおろか、セットアップすら受けたがらない学生も多かった。今思うに、これもニーチェスト離れの原因の一つだったんだろう。そんな中、自分には幸運と言うべき事実があった。その幸運とは小さい手と誰よりも突出していた豆状骨だった。正直言って片手でバスケットボールを掴めない、ギターのコードが届かない、握手しても一方的に握り潰されるだけの自分の小さな手は相当なコンプレックスだった。しかし、カイロプラクターとして生きていく事においては天からの授かりもの(両親に感謝です)だったのだ。この小さい手と突出した豆状骨のお蔭で僕は今までハイアーチの必要性を感じた事は皆無だ。

これは数少ない自慢だが、当時も今も僕の豆状骨を見て驚かない人は居ないと思う。実際、この時期にあるクラスメートが僕の豆状骨と素振りを見て、僕の事をTMFと呼んだ。このTMFとはToggle Mother F@ckerの略で、その意味はもちろん良い意味だ(笑)

12に続く〜

カイロプラクターへの道 10

  • 2010.08.13 Friday
  • 17:18
シャーマンでの生活も2年目に突入した頃、フルスパインに対応するテクニックを学んだ。具体的にトムソン・ピアーズ、ガンステッド、そしてディバーシファイドである。ただ、これらのテクニックはシャーマン独自のフルスパイン・テクニックとして統合されているので、個々のシステム論を無視したテクニックだった。

あくまでも上部頸椎以外の椎骨にサブラクセーションが存在した時にそれらをアジャストメントする為の手段として教えられた。よって、純粋なガンステッド・システムを学びたい学生達には特に不評だった。実際、ガンステッドカイロプラクターを父親に持つクラスメートは良く「こんな寄せ集めのテクニックはガンステッドへの冒涜だ!」と批判していた。よって彼の様な学生は皆ガンステッド・セミナーに参加せざるを得なかったようだ。

シャーマンには独自のアジャストメントシステムが存在していて、このシステムはHIOがベースでレントゲン分析や皮膚温度差計測器(C-3000など)によるパターン分析を行う。ただ、HIOと異なるのは上部頸椎以外の椎骨も極稀にアジャストメントする必要があるという点だ。当然ながら、上部頸椎以下の椎骨に対してターグルリコイルも可能だったので、ターグルが性に合っていた自分はかなり適当に終わらしてしまった科目だった。

当時を思い返してみて分かった事だが、結局シャーマンの教育はターグルリコイルありきだったと言わざるを得ないかな。

11に続く〜

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